
ご挨拶

高平会長は現場を頻繁に訪れて品質のチェック、生産状況を観察しながら職人との会話を重視されていた方でした。
私も入社当時から、現場にてよく声を掛けていただきました。
そんな会長の期待に応えたくて、私なりに考え思いついたことを会長に提案するといつも真剣に耳を傾けて下さいました。
後には、会長室にて今後のアダムについて長い時間話し合ったことも思い出の一つです。
そんな会長と話をしていて感じたのは、「この人は四六時中アダムのこと、ビリヤード業界の発展について考えているんだなあ」という事です。寝ても覚めても製品の改良点や新しいアイデアに時間を割いていらっしゃいました。
その姿勢を私も少しでも受け継ぎ、会長が築いたアダムを更に発展させることが、会長から社長を任された私の使命だと考えております。最高の製品を生み出す会社アダムを目指して社員のみんなと共に努力していく所存です。
どうぞ宜しくお願い致します。
- 株式会社アダムジャパン 代表取締役
- 関口 貴啓
メッセージ

高平会長、長い間お世話になりました。
高平会長とは53年の付き合いでした。
色々な思い出がありますが、中でも特に記憶に残るものは会長から頂いた「キュー」です。
その頃、関東にまだプロがいないこともあり、私は会長から「長矢さん、プロにならないか?と勧められプロの道を歩むことになりました。その折にお祝いとして特別仕様のキューを作って頂いたのです。その特別なキューは未だに大切に手入れをして持っています。
全日本選手権や全日本オープン選手権などで優勝した折、パーティーを開いてくれたことなども今となっては大切な思い出です。
会長、今までありがとうございました。
- 長矢 賢治

ポジティブなエネルギーを与えてもらいました。
私の場合、父の代からなので、生まれた時からお世話になってます。
アダムキューと父に育ててもらい、私がビリヤードを始めてからもずっと高平会長のアイデアとともにプレーしてきました。
Wジョイント→ACSS→MUSASHI→等々、今も最新作のシャフトM-Fuji23で試合に挑んでいます。
今想えば、高平会長が次々と新しい物を創ってくれてきたおかげで私自身も常に新鮮な気持ちを切らすことなくプレーを続けて来れました。会長のあくなき探求心が我々プレーヤーのモチベーションをも高めてくれる、最高の環境を今も与え続けて下さっています。
高平会長のおかげで常にワクワクする楽しいビリヤード人生を送れています。きっと次の世代でも人をワクワクさせてくれるでしょうね!
いつまでも感謝しています。
- PBA/JPBF
- 小林 英明

私がビリヤードを始めた時に初めて買ったキューがアダムのキューでした。プロになった時もそのキューを使ってたのを高平さんが知っておられて、その時大阪だったのですが新作のキューが出来ると送って頂き、お顔も知らないなかお礼のお電話をしてお話したことを懐かしく思います。東京に来てから初めてお会いした時は、背の高いやさしいお顔の方だなと印象があり、すごく熱くキュー作りの話をしてくれた事も懐かしく思います。高平さんとの縁があり、会社に来て色々お話をさせて貰い、いつもキュー作りの話をしている時の顔が忘れられません。
- JPBA
- 梶谷 景美
ご報告
髙平睦生のあゆみ
1937年10月 | 高平睦生 生誕(長男) 幼少期は宮崎県で過ごす |
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1964年 | 初めてビリヤードキュー製造 約4年間 キュー製造の経験を積む |
1968年 | リーガルキュー製作所に入社 リチャード・チャールズ・ヘルムステッター氏と出会う |
1970年3月 | 社長に就任したヘルムステッター氏が リーガルキュー製作所を改め 有限会社アダムカスタムキュージャパンを設立 高平睦生も同社に移籍 アメリカを中心に販路拡大 |
1973年 | 故・小林伸明プロのアドバイスを受け キャロム用キューを販売開始 |
1986年 | 事業縮小に伴いヘルムステッター氏が社長辞任 高平睦生・代表取締役社長に就任 |
1987年 | 突如訪れたビリヤードブーム 輸出を中心にキューの販売量が回復 |
1990年代 | ビリヤードブーム終焉を迎えたころ 生産数よりも品質を向上させることに注力 このころ、ダブルジョイントなどの 現在にも続く新技術が開発される |
1999年 | 株式会社化し社名を アダムジャパン株式会社とする 本社工場を埼玉県狭山市に移転 |
2000年 | アダムジャパンを代表するキュー Musashi を世に送り出す |
2014年 | 代表取締役会長に就任 |
2023年9月 | 逝去 |
高平睦生の想いが詰まったキューはこれからも世界中のプレイヤーとともに戦い続けます